〈1〉
平成21年4月某日、1人の男性が72年の生涯を閉じた。
彼の名は早川利光、職業はペンキ絵師。
銭湯に行ったことがある方なら、
恐らく誰もが浴室の壁に描かれている富士山を目にしたことがあるだろう。
ペンキ絵師とは、あの絵を描く職人のことだ。
平成21年9月現在、東京には約900軒の銭湯がある。
2600軒以上あった全盛期の昭和43年と比較すると、
3分の1近くまで減少していることになる。
ほとんどの家庭に風呂が設置されるようになり、客足が減少したことが1番の要因だ。
銭湯の減少に伴い、ペンキ絵師という職業の衰退も深刻化している。
毎日のようにペンキ絵の依頼が舞い込み、
1日に2軒の銭湯に絵を描くこともざらだった時代は遠い昔。
数十人いた絵師達は、ペンキ絵だけでは生計を立てることができなくなり、
1人、また1人と廃業を余儀なくされていった。
そして早川氏の死によって、日本に存在するペンキ絵師は僅か2人となった。
丸山清人氏と中島盛夫氏である。
元気に現役で活躍中とはいえ、丸山氏は74歳、中島氏は64歳とかなりの高齢だ。
加えて、この先さらに銭湯の数は減り、ペンキ絵の需要も減ってゆくことは想像に難くない。
「こんなことを言うのは嫌ですが、この芸術は消え去る運命にあります。
残念ですが、誰もこの流れは防げないのです」
と、丸山氏はかつてインタビューの中で語ったことがある。
遠くない未来に、丸山氏の言葉は果たして現実になってしまうのだろうか。
鍵を握るのは1人の女性、田中みずき(26歳)だ。
〈2〉
午前8時。銭湯の脇に停められたワンボックスカーから、
作業着姿のみずきが次々と荷物を運び出してゆく。
脚立や角材、鉄板、大量のペンキなど、荷物はどれも重そうだが、みずきは辛そうな顔1つ見せない。
ペンキ絵師見習いの彼女にとって、荷物運びは基本中の基本なのだ。
「来る途中にね、立派な赤松があったんだよ。写真撮っとけば良かったな」
みずきと一緒に荷物を運びながら、彼女の師匠である中島盛夫氏が言う。
「へぇ、どの辺にですか?」とみずき。
「杉並の辺り。ほら、青梅街道沿いの…」
そんな何気ない会話を交わしながら、2人は荷物を抱えて銭湯に入ってゆく。
浴室の壁には、早川利光氏が約1年前に描いた富士山がそびえている。
中島氏はしばしその絵を見つめた後、タイルの床に腰を下ろしてペンキを混ぜて色を作り始める。
一方、みずきは壁の周囲を、ペンキが付かないようシートで覆ってゆく。
養生といって、これもペンキ絵師の基本的な作業だ。
続いて、空の浴槽の上に足場を組み立てた後、
絵の表面のペンキがささくれ立っている部分を金属のヘラでならしてゆく。
ここまでの作業を終えて、ようやくペンキ絵を描く下準備が完了するのだ。
小休止の後、足場の上に設置された脚立にみずきが足をかける。
手にはローラー、腰にはペンキの容器がくくり付けられている。
「気を付けなよ」と早川氏。最上段は4〜5メートルにも及ぶ高さだが、
みずきは躊躇する様子を見せずに上ってゆく。
下を見ないようにするのがコツなのだそうだ。
天井近くまで辿りつくと、みずきは水色のペンキを染み込ませたローラーを壁に当て、ゆっくりと動かす。
広がる空の上に、新しい空が生まれてゆく。
「うん、良い色だ」
離れた場所から眺めていた中島氏が頬を緩ませる。
新米のペンキ絵師は、まず空を描くことを許されるという。
見習いのみずきにとって、実践経験を踏める貴重なチャンスがこの瞬間なのだ。
〈3〉
みずきがペンキ絵と出会ったのは大学3年生の頃。
日本美術史を専攻していたみずきが、卒業論文のテーマに
「銭湯の浴室にはなぜ富士山が描かれているのか」を選んだのが始まりだった。
実はそれまで銭湯に行ったことが無かったというみずき。
だが、好きな美術作家が銭湯をテーマに作品を作っていたことを知り、
ものは試しにと近所の銭湯に行ってみたところ、これまでに出会ったことの無い衝撃を受けた。
「歩いて10分くらいの場所にあるのに、そこだけ別世界でした。
銭湯って特別な意味がある空間ではないのに、お湯に入っていると
自分の全てを受け止めてもらえるような、すごい不思議な空間なんです」
さらに、そこで見た富士山のペンキ絵が、みずきの興味を引き付けた。
湯の中で足を伸ばし、何もかも忘れてぼんやりと眺められる芸術が他にあるだろうか?と。
その後、湯冷めする間もなく(?)ペンキ絵の研究を始めたみずきは、
お台場でペンキ絵の公開制作イベントが行われることを知って足を運ぶ。
昭和の町並みを模した店舗が並ぶ中、銭湯の壁に見立てた巨大なキャンバスに、
魔法のような筆さばきで富士山を描いていたペンキ絵師が、中島盛夫氏だった。
「描いてる時のスピード感に魅せられたのと、目の前でどんどん
見上げるような絵ができてゆく様に引き込まれてしまいました」
初めてペンキ絵の制作現場を目の当たりにしたみずきは、感想をそう語る。
イベント終了後、みずきは中島氏に卒論のことを説明し、
実際の現場を見学させてもらえないかとお願いする。
中島氏は快く承諾するのだが、このときみずきは既に「この人に弟子入りする!」と
密かに決意していたのだった。
何度目かに見学に行ったとき、みずきは思い切って中島氏に打ち明ける。
「私もペンキ絵を描きたいんですけど、弟子は取ってますかって、そんな聞き方をしたと思います」
だが、中島氏の返答はNOだった。
銭湯やペンキ絵師の現状を誰よりも知る中島氏の、
未来ある若者を路頭に迷わせたくないという思いからだった。
みずきは必死に懇願した。
生活の面倒まで見てくださいという訳じゃありません。
私は絵の描き方を教えて欲しいんです。
この芸術を途絶えさせるわけにはいかないんです、と。
すると、みずきの熱意が中島氏の心を動かした。
「他に仕事を持つこと」を条件に、中島氏はみずきの弟子入りを認めた。
約束通り、みずきは大学院卒業後に美術系の出版社に入社。
平日は会社員、土日は師匠の元で修業という、ペンキ絵師見習いの日々が始まったのだった。
〈4〉
午前10時15分。男湯と女湯の境界付近、文字通り銭湯のど真ん中の位置で、中島氏が脚立に上る。
空はみずきの手できれいに塗り終えられ、これからいよいよ主役とも言うべき富士山が描かれるのだ。
中島氏が手にした筆は、壁に触れた次の瞬間、まるで水中に放たれた魚のように、生き生きと動き始めた。
とにかく早く、微塵の迷いも無い。
たちまち雪に覆われた山頂と、優雅な稜線が姿を現した。
中島氏は時折壁から離れ、全体の構図を確認する。
そして何か呟いた後、また作業を再開する。
みずきは中島氏の傍らで、ペンキのパレットを差し出したり、脚立を支えたりと、アシスタントに徹している。
静まり返った空間に、筆が壁にぶつかるペン、ペン、という音だけが響き続ける。
〈5〉
ペンキ絵の発祥は、大正時代にまでさかのぼる。
かつて神田にあった銭湯「キカイ湯」のオーナーが、
お客さんに楽しんでもらうためにと考案したのがペンキ絵だった。
そこに目を付けたのが広告代理店である。
所属する絵師がペンキ絵を無料で描く代わりに、
絵の下に広告を掲載させてもらうという仕組みで、多くの銭湯にペンキ絵が描かれていった。
当時、町中の人々が集う銭湯は、最高の広告媒体だったのだ。
だが、その後広告の需要は減ってゆき、広告代理店は消滅。
ペンキ絵だけが文化として残り、現在に至っている。
ちなみに、初めて銭湯にペンキ絵を描いたのは、川越広四郎という静岡出身の画家だった。
彼が描いたのが富士山だったことから、銭湯に描かれる絵は富士山に定着したというのが、
現在残っている最も有力な説である。
〈6〉
午後1時30分。富士山が威風堂々とその全姿を覗かせ、男湯側の麓に海岸、
浮島などの風景が描かれたところで、ようやく昼食の時間だ。
みずきがコンビニに弁当を買いに行っている間、
中島氏は持参した鍋を取りだし、ガスコンロにセットする。
ペンキ絵を描くときのように鮮やかな手つき…とまではいかないが、
焼き松茸に松茸と茄子のスープという豪勢な料理がたちまちできあがる。
デザートにはバナナとブドウまで用意している周到ぶり。
「すご〜い!」
戻ってきたみずきが歓声を上げる。
「ちょっと味が濃いかもしれないなぁ」
言いながら、中島氏は笑顔でスープをよそう。
みずきが弟子入りする前は、いつも1人で作業を行い、1人で昼食を採っていた中島氏。
人をもてなすことが大好きだという中島氏は、みずきとの昼食がとても楽しそうだ。
しかも、この日は銭湯の定休日。
営業時間前に終わらせる必要がないので、ややのんびりすることができるのだ。
「こないだ弁天湯から電話があってね、お客さんが喜んでたよ、
ありがとうって言ってたよ」
更衣室の床に腰をおろし、弁当を頬張りながら、中島氏が笑顔で言う。
「本当ですか!嬉しいですね」とみずき。
彼女自身も、ペンキ絵見習いを始めて1番嬉しい瞬間は、お客さんに絵のことを喜んでもらえたときだという。
「さあて。仕上げしたら、午後は女湯だな」
中島氏が言い、2人は浴室に目を向ける。
窓から差し込む日差しが、描き途中のペンキ絵を照らしている。
〈7〉
みずきは作業中、こまめに現場の写真をデジカメで撮影している。
後で作業内容を確認するためでもあるが、同時に自身のブログにアップするためでもある。
ペンキ絵の技術を身に付けるだけでなく、より多くの人に銭湯の魅力を発信してゆかなければならない。
それが、次世代を担うみずきに課せられた使命なのだ。
「お子さんを持つお母さんとか、子育てをしてる方にもっと銭湯に来て欲しいですね」
女性ならではの視点から、みずきはそう語る。
「お母さんって気を抜く瞬間が無かったりするので、近くに癒しスポットが無ければ、
ぜひ銭湯で気を抜いてほしいです。
お子さんを連れて来ても、体を洗ってる間は他のお客さんが面倒を見てくれたり、
知らない人同士でも頼り合える空間なんですよ。
けど、機会が無ければなかなか行かないのが現状なので、
例えば親子でペンキ絵の一部を描いて、その後一緒にお風呂に入ったり、
そういうイベントができたらなぁと思います」
銭湯を盛り上げたいというみずきの取組は、決して孤軍奮闘ではない。
銭湯を愛する多くの人達によって、銭湯をテーマにしたトークイベント「東京銭湯ナイト」、
銭湯でロックライブを行う「風呂ロック」、銭湯通が知識を競う「銭湯検定」など、
連日数々のイベントが開かれているのだ。
いつかのブログで、みずきはこう書いている。
「結局、人なんじゃないかと、ぼんやりと思いました(中略)
たくさんの人が過ごした時間が、大切に残って、そしてまた何か生めたら、
本当に豊かな銭湯というものが見えてくるかもしれない。、、、と思います」
〈8〉
午後4時50分。ペンキ絵は着々と完成に近づいている。
女湯側の富士山の麓に現れたのは、湖、滝、岩山などの風景だ。
中島氏は筆やペンキをこまめに変え、細かく手を入れながらさらに臨場感を加えている。
「みずき君、雲を描いてごらん」
仕上げをあらかた終えた後、不意に中島氏が言う。
みずきは少しだけ戸惑った表情を浮かべる。
「どの辺に描けばいいですか?」
「どこでも良いよ。自由に描いてごらん」
みずきは頷き、脚立に上って雲を描いてゆく。
中島氏は手取り足とり指導するタイプではない。まずはみずきの思うように描かせるのだ。
それが難しいところでもあり、楽しいところでもあるとみずきは言う。
「遠慮したらだめだよ」
みずきの描いた小さな雲を見て、中島氏の檄が飛ぶ。
「はい!」
筆を持つみずきの手に力がこもる。
水色の空によく映える、白くて大きな雲が次々と生まれてゆく。
〈9〉
みずきがいつも鞄に入れて持ち歩いているものがある。それは石鹸箱だ。
中には石鹸でかたどった小さな富士山が入っている。
「御守りみたいなものです」とみずきは言う。
「銭湯っていう空間は、自分を全部受け止めてくれる感じがするんです。
自分の手元にもそんな空間があって、いつも自分を受け止めてくれたら、
辛いことがあっても気が楽になるんじゃないかって」
当たり前だが、みずきはペンキ絵師見習いであると同時に、
ジブリ作品が好きだったり、美術館や水族館に行くのが好きだったり、
お酒を飲むのが好きだったりする、26歳の女性でもある。
時には迷い、悩み、試行錯誤し、それでも前向きに日々を生きてゆく姿こそが、彼女の等身大の魅力なのだ。
「やっぱり、自分で1枚描けるようになりたいですね」
目標を尋ねると、みずきはきっぱりと答えた。
「ペンキ絵師って、自分が描いた絵は誰にも負けないと思うようにならないとできない仕事です。
この銭湯のこの場所だったらこの絵しかないというのを、自分で描かなければならないんです。
師匠が描いたのではなく、私が描いたんですって言いきれるものを描かなければならないと思っています」
それはいつぐらいだろうか?尋ねると、みずきは微笑んで答えた。
「そんなに、遠くないと思います。分からないですけどね(笑)」
〈10〉
午後8時半。ペンキ絵師の長い1日はようやく終わろうとしている。
早川氏が描いた力強いタッチの富士山は、中島氏の穏やかで優しい富士山に生まれ変わった。
銭湯の主人もやって来て、ペンキ絵を満足そうに眺めている。
その傍らで、中島氏とみずきは疲れた様子も見せず、黙々と片付けを行っている。
またいつの日か、中島氏が描いた絵の上にも新しい絵が生まれるのだろう。
作品が残らないのは寂しいことのように思えるが、それがペンキ絵という芸術の宿命でもある。
それに、作品は消えても、師匠から弟子へと受け継がれてきた技術や魂は消えない。
銭湯がある限り、ペンキ絵もまた永遠なのだ。
銭湯の出入り口から、普段着に戻った中島氏とみずきが現れる。
知らない人から見れば、まるで仲の良い親子のように見える2人だ。
すっかり夜が更けた町を、2人は中島氏が運転するワンボックスカーで遠ざかってゆく。
銭湯という場所が、古くから日本人に愛されてきた理由。
それを改めて実感できたような気がした。
田中さんのブログ「銭湯ペンキ絵師見習い日記」です。
http://mizu111.blog40.fc2.com/
2009.11.3 written by コエヌマカズユキ
戻る
ペンキ絵師見習い
